第一話では、僕の自己紹介と僕からみた業界の状態を少しお話しさせてもらいました。

「先細りの業界」といった僕の考えとはまた違うご意見もあるとは思いますが、僕の体験していることからそう思うんです。そもそも、うちの工場もだんだんと仕事は減り、今はほとんどないといってもいいぐらいです。僕が家業、つまりは捺染業界に入ったのが、1987(昭和62)年3月末。大学に入学した頃は職人さんも67人いましたが、帰省するたびに職人さんの数は減っていきました。仕事がなくなっていったということです。繊維業界が悪い時期で、同業者の廃業を京都に帰って来るたびに耳にしていましたけど、自分が家業を継いでいくことに何の疑問ももたなかったし、幼稚園のころから家の仕事をやるもんやと勝手に思い込んでいました。

 

案の定、入社した春先はまったくといっていいほど仕事がなかった。ところが半年後には親子3人ではこなせないくらいの仕事が次から次へと来たんです! しかし、業界が盛り上がって息を吹き返したとか、業界内でとんでもない革命を起こした人が現れた…というわけでもなかった。世間が勘違いをしたバブルがもう始まっていたということです。仕事が来たのは確かです。息つく暇がないぐらいに。


うちは京都では珍しく先代から雨傘の生地の染めを中心に仕事をしてきた会社です。小さい染工場やけど親の代から半世紀以上、雨傘の生地を染めて飯を食ってきました。それなりの歴史みたいなもんはあるところです。競合相手は横浜の染工場でした。

傘生地の仕事は、ヨーロッパや日本の有名ブランドとライセンス契約をした得意先からの仕事が多かった。バブル期はその象徴でいろんなブランドの雨傘を染めていました。みなさんもよくご存じの世界

                                                                    を代表するブランドです。


しかしながら、時間の経過とともに日本におけるそれぞれのブランド力が弱まってきました。そうなると、当然物が売れなくなり、うちにも仕事が回ってこなくなります。それが請負仕事といわれるやつの運命、結局待ってるだけの仕事になっていたということです。この単純な事実、これはとても重要なことやと思います。

(画像:鷲野染工場オリジナル日傘)


僕が家業を引き継いで7年後の2000年ごろから、先代からずっと主としてきた傘生地の捺染仕事が徐々に減ってきました。ここで運がよかったのが、当時お世話になっていた型屋さんが服地の仕事を中心にされているブローカーの方を紹介してくれたことです。その人はうちの傘生地を染める技術を高く評価してくれていました。

ブローカーさんのおかげで、下請けやけど服地の仕事は増えていきました。傘生地の仕事が減るなかで服地の仕事が増えることは、蒸し、整理、材料など服地の染めの勉強を一から始める必要がありました。たとえば、傘生地は基本的にポリエステルだけやけど、服地はポリエステル・綿・レーヨン・麻・ウール・シルクなど多品種を扱うことになります。それだけ違った仕事をせんとあかん。大変やったけど、会社を続けていくことが重要ですから、仕事があるのはありがたかった。そして、いろいろと僕の仕事の幅を広げてくれたのも事実やと思います。

ほんで、いろいろと仕事をさせてもらうなかで、次第にある考えが僕のなかで生まれてきた。

 

「ずっと服地の下請けをしてたらあかん。直接仕事をもらわないと」

 

傘生地を染める仕事に関しては、直接テキスタイル会社と仕事をしていましたが、服地についてはブローカーさんから仕事をもらっていました。

テキスタイル会社は、平たくいえば、服飾またはインテリア用途の生地(布地・織物)をデザインする会社。アパレルは、テキスタイル会社から購入した生地で衣服などを企画、製造、販売する会社です。テキスタイルは平面デザイン、アパレルは立体デザインと思ってもらえたらいいのかなと思います。服地についてはその間にブローカーさんがいて、うちに仕事が回ってくるという流れでした。その流れの改革は以前からも考えていましたが、より強く感じるようになりました。読んでいただければ理解してくれはると思いますが、下請け仕事を否定しているわけではありません。実際に下請けの仕事もさせてもろてます。

 

理由としてはいろいろあります。金銭面はもとより、大きな利点の一つに情報収集というのがあります。テキストタイルなど、より時流に敏感なところと直接仕事をすることで得られる情報があると思った。また、テキスタイル会社ではさまざまな仕事がありますから、仕事の展開もさらに広がるんちゃうかなと思ったんです。「染める」という仕事そのものも重要ですが、それに至るまでのもろもろの「準備」というのも大切なことです。


話を戻しまして…何年か服地の下請けという形で仕事をさせてもらいましたが、限界でした。自分の力不足もありましたが、このままではいかんと思いました。幸いにもいろいろな人に恵まれて、自分でいうのもおこがましいですけど、手捺染の技術や物を仕上げる腕には自信がありました。そこで、ずっと考えていた自らを売りにいって自分で仕事をとってくるようにしました。

「鷲野は仕事にうるさい奴や」と界隈ではある意味で有名やったんで、交渉相手はめんどうくさいなと思っていたかもしれせんね()


まあ、でも営業の甲斐があって、京都のテキスタイル会社数社と直接仕事をさせてもらえるようになりました。開拓は少し成功しました。

せやけど、これも時間の問題でした。プリント柄の服の企画が減ってきたのと、やはり時代がオート(その後インクジェットに移行していく)に流れていったことで仕事量は減っていきました。服地の仕事をもらったとはいえ、何度もいうように繊維業界全体が落ち込み始めている時期やったし、僕のやっているハンドプリント(手捺染)をしている工場よりも、オートプリント工場が業界を席捲していて、機械でやったほうが安いし、オートプリント工場で小ロットの対応が始まっていた。

これは持論ですが、僕らのハンドプリントもそうなんですけど、オートも小ロットの仕事ではどうしても採算が合わないはずです。おそらくオートも無理矢理採算を合わす方向に舵をきったのだと思います。では、どのような方向に舵をきったのかが問題なんです。採算を合わせにいくときはどうしても材料費に手が加えられることが多い。業界全体の質を下げる方向にいったんちゃうかと考えざるを得ない。そのときはそれでええ。でも後々になってその代償を払わされることになることもある。結局質が問われることになるんです。だから本来は、小ロット化の流れに質を保持したままどのように対応するかを考えないといけない。「言うのは簡単や」という人もいるかもしれんが、これは真正面から取り組む問題やったし、これは今の時代にもいえると思います。

服地の仕事の流れを改革したにもかかわらず、次第に僕の会社は悪い方向に進んでいった。そして、とうとう半世紀以上続いていた傘生地の仕事がなくなりました。

残念やった、ほんまに。「ええもん」は残ると思いながら、父親に反対されながらも会社内の改革にも取り組み、京都のハンドプリント工場では挑戦しないこともやってきた。その結果、父親がやってきた染めとは違うものを作り、ライバルでもあった横浜の染工場とも違う傘生地の染めができるようになって、それを評価してもらえたことは、うれしかったし自信にもなりました。しかし、最後のほうは「ええもん」を作っているという実感がもてへんかった。傘生地の仕事がなくなったのは時代の流れもあるけれど、それだけやないと思います。時代のせいだけやないです。ずっと思ってきた「請負の染めだけではあかんし、仕事の流れを変えただけではあかん。染屋やけど加工屋の枠から脱出するんや」というのがより現実的になった瞬間でした。また新しい挑戦をすることに大きな意味をもちだしたんです。


その挑戦の一つとして考えたのが自社で企画して販売をするということ。この考えに至るうえでは、技術や材料など商品開発が可能な状況がうちの染工場内にあったということもありますが、もっと大きな要因となったのは人との出会いです。これは誰しもがいっていることで、どの業界でもいわれていることでしょう。僕もそれを実感としてもつようになりました。あとは人の話に耳をかたむけるということです。

展示会の出店やイベントに顔を出すようになり多くの出会いがあって、出会いがまた出会いをよび、良い知恵を授けてくれる。それが次につながる糸口になっています。だから傘の仕事がなくなったとき、売り上げがまったくといっていいほどないときなど、苦しくつらい状況にあったとしても、人と出会える環境づくりは大事やなと思えるようになりました。そのためには「何事も楽しむことが一番やん!」とできるだけそういう心持ちでいるようにしています。

苦境を乗り越えた先には「ええことあるんちゃうか」と期待しませんか? たしかにそういうこともあると思うし、僕もそう思っていました。けど、ちょっと違うんです。

「ええこと」というのは、苦しいとき、つらいときを抜け出したあとにやってくる一瞬の喜びのこと。本当に宝となるのは、少し成長した自分と成長した分だけみえる景色が変わってくることだと思います。

 

僕が自社で商品開発に本格的に乗り出した一つのきっかけとなったのは、ある大学の先生との出会いです。もちろん、転機を与えてくれた出会いはいっぱいありますが、この大学の先生との出会いもターニングポイントになりました。