2月8日(月)
8時起床。ゆでたまごにツナ缶とトマトで朝ごはん。
さむいさむい。
岸田劉生の随筆集を読む。中の挿絵が愛らしくてとても良い。美術館でみる岸田の画より数段良いなと思う。人物の表情や仕草が鮮明、自分好み。
10時に印刷屋さんから束見本届く。待ってました。
天地、小口の染め、なかなか上々な出来やないですか。ちょっとホッとする。
午後にデザイナーさんと束見本をみながら最終調整。もう少し、背と表紙の溝を無くしてもらい、フラットにしてもらうよう相談する事にする。
それから、移動にして撰者・山本さんと相談。高野の大垣書店のカフェ。
山本さんは「大垣書店の喫茶部な」と言っていた。
出来てからが大事でちゃんと売っていこうなとお話。
「これが売れないと『灯光舎』のともしびが消えてしまいます」というと、
「ほな、二人で午前中にコンビニでバイトしようか」とか話す。
夜は、サバのしょうが焼きとごはんと中華スープ的なもの。おいしかった。
2月11日(木)
堆く築かれた本の山を眺める。性格上、積読が実は肌に合わない。
読んでいかなあかん。
最近、変に古本熱なるものが体内にふつふつとしているのを感じる。まずい、本当にまずい。場所やらお金はどうするんや。性格上合わないと言う事は、ストレスになることもある。しかし、ふつふつと地熱のように静寂として湧いてくる、これは矛盾していると自身で思う。健康上良くないはずなのだ。しかし、この熱を我慢すればそれはそれでストレスと考えると堂々巡り。
尾崎一雄の『冬眠居士談』を手に取る。この「冬眠」というのは彼が病に伏しているときにつけた名前であるようだ。尾崎の細君は「永眠はどうです?」というかなりきついブラックジョークを披露する。おもしろいな。
前にも読んだし、パラパラと読んで本棚へ。
次。源氏鷄太の『三等重役』。大衆小説、これは少し時間がかかる。随筆の良いところは、わりと短いのが多いから、飛ばして読んだり、興味のあるところをつまみ食いできるところだと思っている。
冒頭を読み始めて、これは期待できると少し楽しみ。
一冊減りました。
2月17日(木)
京都の書店さんへ営業。久しく挨拶が出来ていなかった。コロナもあったけど、何かとバタついていた。
まずはとある大学の生協に。これもずっとお会いしていなかった担当さんとお話。独立の報告の時にゆっくり話したけれど、それからは一度お会いして、それ以来か。
「どうですか、調子は?」
「そうですね、会社は何とか2年もったという感じですか」
「そうですか、順調に本も出せてみたいですね」
そんな平々凡々とした会話にありがたいと思うときがある。立ち上げた会社のことを気にしてくれる人は前職からのつながりがある人が多い。だから、何となく、ポンと肩をたたかれ励まされているようで、嬉しく、ホッとなることもあるのだ。大学の書店さんのご事情なんかもお伺いする。コロナでも書店さんがんばっている。
そこからイオン系のモールに入っている数軒の書店さんを訪問。今回のメインは『どんぐり』だから、文芸の担当者さんがメイン。これまで、一度も触れたことのないジャンルに何度も冷や汗がでる。営業出身のくせにあがり症だし、人見知りときている。
最後は、レティシア書房の小西さん。顔なじみと言っていいのかわからないが、少し緊張がほぐれる。
そうなると、店内の本が目に入ってきて、古本3冊も買ってしまった。『どんぐり』も期待してくれているようで、ありがたい。
今度は滋賀、大阪へ行く。
『どんぐり』は多くの方々に読んでほしい一冊なのだ。
2月25日(木)
この頃は特に何か書きたい欲求がとまらない日々を送っている。困ったことに仕事がなかなか進まないのだ。これも、志賀直哉全集を最近買ったせいである。僕は、大学生か卒業して間もないころだったか、まあまさに青春と言われる大事なときの3,4年を志賀直哉に捧げたと言ってもいいかもしれない。
彼の執筆した諸々の文章を読み、彼の持つ「眼」を体内に吸収すべく努めた。岡崎公園に遊びに来ていたひどりがもをずっと眺めて文章に描写したり、道行く人をずっと眺めて特徴を書き写したり、嫌いな虫を観察したり、ちょっとした文章を書くときに「書生」とか書いてみたりした。「書生」は別の作家だったかもしれない。とにかく、すべてが検討外れだったと思うが、当時は時間を持て余していた部分もあり、また文章に触れるきっかけになると思って飽きずにやっていた。
こんなことを貴重な時期にやっていたので、今回また全集に触れたことがきっかけで書きたい欲求が起ってしまった、と思っている。僕は文献や他者の書いた本をできるだけ引用、参考にせず、頭で考えたり、感じたことだけで書くのが好きである。調べるのは邪魔くさいこともあるし、思考や感覚でものを書いた方が相手に伝わるんじゃないかと思っている。まあ、そこに訴えかけるようなものが書けているかは甚だ怪しい。出版社にいて本当に大丈夫かと思う部分もあるが仕方ない。もともと本が嫌いだった浅学菲才な坊主が、綿矢りさ、五木寛之を経由して、志賀直哉の「城の崎にて」に辿りついてしまったのだから、不運としか言いようがない。
よく漱石の「吾輩は猫である」の冒頭の名筆が紹介されるが、「城の崎にて」の冒頭もなかなかだと思う。新潮文庫に収録されているので、気軽に読める。「城崎にて」の中で、いくつも名筆と思える部分に出会ったし、志賀直哉の感覚、感性に驚いた。僕にとって彼の文章はとても正直だった。実直というか感じたことをそのまま文章にのせている、そんな感覚があった。もちろん、それは志賀直哉の技巧なのだろうが、読んでいると鬱屈としたものがすうと消えていく感覚があった。たぶん、こんなことをいう人間は珍しいと自分で思う。
自分が感じた事をまっすぐに見つめる志賀直哉の文章は、当時の僕にとってとても新鮮な眼差しであった。
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